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賀循 彦先

  • 人物番号: 0456
  • 姓 名 :  じゅん
  •  字  :  彦先 げんせん
  • 出身地 : 会稽郡かいけいぐん 山陰県さんいんけん
  • 生没年 : 260 ~ 319
  • 性 別 : 男性

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賀 循(が じゅん、260年 - 319年)は、中国西晋から東晋にかけての政治家。字は彦先。揚州会稽郡山陰県の人。曾祖父は賀斉。祖父は賀景。父は賀邵。子は賀隰。東晋の元帝(司馬睿)に仕え、「五儁」[1]と謡われた。賀氏の元の姓は慶氏である。その祖は前漢の慶普にまでさかのぼることができる。賀斉の伯父・慶純は学者として名があり、後漢の安帝の時代に侍中・江夏太守を務めた人物である。彼が安帝の父の名を避けて賀氏に改めた。父・賀邵の処刑に伴い、臨川郡に配流されていたが、呉の滅亡と共に、ようやく故郷に戻る事ができた。賀循は高く厳しく節操を持ち、幼い頃から言動も行動も礼儀正しかった。学問を好んで広い知識を身につけていたが、特に三礼(儀礼・周礼・礼記)に詳しかった。晋代になって、秀才に推挙され、陽羨県と武康県の県令を歴任した。会稽内史に務めていた時期に、西興運河を開墾し、会稽郡から銭塘江までの運河を開通させた。後に顧栄(顧雍の末裔)・陸機・陸雲ら晋に仕えた呉の豪族たちに推挙され、賀循は中央に召し出され、太子舎人となった。趙王の司馬倫が帝位を簒奪した後、転侍御史に任じられたが、永らく労咳(結核)に罹っていた為に辞退し、官を辞して故郷へ戻った。張昌の一味の石冰が揚州で反乱を起こした時、賀循は軍勢を集めて防衛にあたったが、反乱が鎮圧されるとそのまま門を閉ざして家に引き籠った。その後、陳敏が孫呉政権の再来を目指して反乱を起こすと、旧・呉の豪族の子孫たちがこぞって参加し、陳敏から爵位を受けたが、賀循とその同郡の朱誕だけが反乱に加わらなかった。なおも陳敏は賀循を丹陽内史に任じようとしたが、賀循は病気を理由に固辞し、陳敏もそれ以上強いて就任を迫ろうとしなかった。のちに陳敏の反乱は顧栄・甘卓(甘寧の曾孫)・周玘らによって鎮圧され、賀循は呉国の内史に任ぜられたが、職に就かなかった。東晋の元帝(司馬睿)がまだ鎮東将軍だった頃、賀循を幕府に招いて軍司馬に任じた。元帝が晋王になると、賀循を中書令に任じようとしたが、賀循は固辞してその任を受けなかった。やがて太常の官に転じ、太子太傅、左光禄大夫を兼任した。当時は東晋の朝廷が建てられたばかりで、政治制度が定まっていなかったが、宗廟の祭祀の決まりは全て賀循が定めたほか、朝廷在野を問わず様々な事柄について賀循の意見を求められ、当時の学者の元締めとして仰がれた。太康二年(319年)、年60で亡くなった。死後、司空を追贈された。子の賀隰は臨海郡太守となった。著書に『喪服要記』、『会稽記』、『文集』等がある。

ウィキペディアより

賀循の一族
    No Data

賀循が登場する文献
  • 8-167~169

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