虞 翻(ぐ ほん、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代の学者、政治家。呉に仕えた。字は仲翔。揚州会稽郡余姚県の人。高祖父は虞光。曾祖父は虞成。祖父は虞鳳。父は虞歆(字は文繍)。子は虞汜・虞忠・虞聳・虞昺ら男子11名ほか。『三国志』呉志に伝がある。 若い頃から学問に励んでいた。ある日、兄に面会を求めた客が、虞翻の所には現れなかったため、虞翻は手紙を送り、故事を引いてその客の見る目の無さを皮肉った。その手紙の内容が非凡なものであったため、その客は非常に感心した。このことが基で、虞翻の名は世に知られるようになったという(『呉書』)。 初め会稽の王朗に仕え、功曹に任じられた。王朗が孫策と敵対し、会稽に孫策軍が迫ると、父の喪中であるにもかかわらず王朗との面会を求め、抵抗せずに避難するよう勧めた。王朗はその言葉に従わず、孫策と戦ったが敗れ、船で海上に逃げ延びた。虞翻は王朗を追いかけ、随行し守護した。東部候官の役所への保護を求めたところ、長官から拒絶された。しかし虞翻が使者に立ち説得に当ったため、入城することができた。
ウィキペディアより