鍾 会(しょう かい、225年 - 264年)は、中国三国時代の魏の武将・政治家。字は士季。父は鍾繇。兄は鍾毓。豫州潁川郡長社県(河南省長葛市)の人。蜀漢を平定した功労者となるも、蜀漢の滅亡後に謀反を起こして殺害された。 生涯 蜀漢侵攻前 幼い時から賢く早熟で、教育熱心な母親の影響もあり、若い頃から勉学に励んだ。鍾会の母親は謹厳な性格であり、また勉強熱心かつ教育熱心で、鍾会に4歳で『孝経』を教え、その後も『論語』・『詩経』・『尚書』・『春秋左氏伝』・『易』などの様々な書物を鍾会に教え暗唱させた。鍾会の母親は鍾会を15歳で太学に入学させ、自分ひとりで勉強するように説いた。蒋済は、5歳の時の鍾会を「並外れた人間」と高く評価している。鍾会は草書・隷書に巧みで、他人の筆跡を真似ることも得意であったという。また、文章も巧く論文を多数書いている。 20歳で朝廷に出仕した。父が曹操・曹丕時代の元老であったこともあり、才略・技能に優れ、博学で勉強熱心だったので、若くして重用されることとなった。
ウィキペディアより