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譙周 允南

  • 人物番号: 0558
  • 姓 名 : しょう しゅう
  •  字  :  允南 いんなん
  • 出身地 : 巴郡はぐん
  • 生没年 : 201 ~ 270
  • 性 別 : 男性

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『ショウ周』より 譙 周(しょう しゅう、199年以前 - 270年)は、中国三国時代から晋の政治家、儒学者。字は允南。譙熙・譙賢・譙同の父、譙秀・譙登の祖父。 巴西郡西充国の人。身長は八尺、誠実で飾り気はなく、頭脳明晰だったが、不意の質問に上手く答えるような機転は利かなかった。幼くして父を亡くしたため家は貧しかったが、勉強熱心で六経を精細に研究し、書簡に巧みで、天文の現象の解釈にも明るかった。 建興年間に諸葛亮に登用され、劉禅に仕え勧学従事になった。諸葛亮が死去した時は譙周は家にいたが、直ちにその場に駆けつけた。諸葛亮の死後、その遺志を受けて姜維が北伐を再開したとき、その無謀さを諌めるために陳祗との討論を元に『仇国論』を書いた。姜維の反応は記録されていないが、陳祗の死去した258年から4年間、姜維は北伐を行わなかった。また彼は太子僕に任命され後に、光禄大夫に昇進した。ただ学問や教育の分野では重用されたが、政治に関わることはなかった。263年、魏が蜀漢に侵攻して来ると、真っ先に劉禅に降伏を勧めた。劉禅は譙周の提案に従い、魏に降伏した。その後、魏の相国であった司馬昭に陽城亭候に封ぜられた。

ウィキペディアより

譙周の一族
    No Data

譙周が登場する文献
  • 5-60,5-84~86,5-89,5-245,5-312,5-332,5-342,5-378,5-453.

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