淳于 瓊(じゅんう けい、? - 200年)は、中国の後漢時代末期の武将。字は仲簡。豫州潁川郡の人。なお、「淳于」が姓で「瓊」が名。淳于は「二字姓」の一つ。同時代に司空・司徒を務めた淳于嘉なる人物がいるが、淳于瓊との関係は不明。 正史の事跡 初期の事跡 後漢の霊帝の時代、西園八校尉の一人として左軍校尉を務めた。霊帝の死後は少帝弁に仕えたが、董卓の専横が始まると中央から逃れて、袁紹配下の武将となる。 興平2年(195年)、袁紹の監軍(袁紹軍の総司令官的地位)沮授が、献帝を迎え入れるよう袁紹に進言したが、淳于瓊は郭図と共にこれに反対し、結局袁紹は献帝の受入を行わなかった。 建安4年(199年)、郭図の讒言により、沮授の監軍の権限・地位が三都督に分割されると、淳于瓊は沮授・郭図と共に都督に任命された。 官渡の戦いと最期 建安5年(200年)に官渡の戦いが始まると、淳于瓊は郭図・顔良と共に、白馬に駐屯する東郡太守劉延を攻撃したが、曹操軍により顔良、後には文醜を討ち取られるなど苦戦した。
ウィキペディアより