徐 盛(じょ せい、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代にかけての武将。呉に仕えた。字は文嚮。徐州瑯邪郡の人。子は徐楷。 生涯 世が乱れると、故郷を離れ呉郡に避難し、仮住まいするようになった。度胸と義に厚いことで知られるようになったという。孫権が孫策の後を継ぐと別部司馬となり、兵士5百人を預かった。柴桑県長となり、江夏の黄祖の侵攻を食い止める任務を与えられた。あるとき、黄祖の子の黄射が数千人を率いて長江を下り、攻撃してきたことがあったが、徐盛は二百人に満たない数でこの侵攻を食い止め、黄射を徹底的に破ったため、黄射は二度と攻めて来ないようになった。この功績により、校尉となり、蕪湖県令になった。このとき、宣城に駐屯していた蒋欽の部下を処罰しようとしたが、蒋欽の功績を重んじた孫権に拒否された。蒋欽との関係も悪化したが、後に蒋欽の指揮下に付けられた時、蒋欽が私怨に捉われない態度を示したため、徐盛は感謝し蒋欽に心服した(「蒋欽伝」)。 臨城で、山越の不服従民を征伐して功績を挙げ中郎将となり、兵士の監督と選抜の任務にあたった。
ウィキペディアより