馬 謖(ば しょく、190年 - 228年)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢にかけての武将。字は幼常。襄陽の名家であった「馬氏の五常」の中の五男(末子)。兄は馬良(四男)ら。その他の兄らの名は不明。荊州襄陽郡宜城県(湖北省宜城市)の出身。 生涯 建安22年(217年)頃に荊州従事として益州に入り、劉備に仕えて綿竹・成都の県令・越嶲太守を歴任した。並外れた才能の持ち主で、軍略を論じることを好み、その才能を諸葛亮に高く評価された。ただ劉備は彼を信頼せず、白帝城で臨終を迎えた際にも「馬謖は口先だけの男であるから、くれぐれも重要な仕事を任せてはならない」と諸葛亮に厳しく念を押したといわれる。しかしながら馬謖の才能を愛する諸葛亮は、劉備の死後に彼を参軍(幕僚)に任命し、昼夜親しく語り合った。 建興2年(224年)春に、建寧郡の豪族の雍闓らが西南夷の有力者の孟獲を誘って謀反を起こした。馬謖が「城を攻めるは下策、心を攻めるが上策」と諸葛亮に助言したため、これが七縱七擒などの作戦に繋がり、南征の成功と蜀の後背地の安定に寄与することになった。
ウィキペディアより