正史三国志データベース 三国検索
ホーム人名事典 > 李異

李異

  • 人物番号: 0778
  • 姓 名 :  
  •  字  : 
  • 出身地 : 出身地不詳
  • 生没年 : ? ~ ?
  • 性 別 : 男性

人物伝 ウィキペディアで 李異 を調べる

李 異(り い、生没年不詳)は、中国の後漢時代末期から三国時代にかけての武将、益州の豪族。趙韙・劉璋・孫権配下。

生涯
建安5年(200年)、趙韙は民の怨嗟の心を利用して、州内の豪族と手を結び、劉璋に謀反を起こした。劉璋は東州兵の奮戦により趙韙の軍勢は撃退され、これを追撃して江州を攻撃した。結局趙韙は配下の龐楽・李異に裏切られて斬られ、反乱は終結した。その後、劉璋に加入した。なお、建安16年(211年)、張松は劉備を益州に招き入れる目的で劉璋に進言した際に「龐羲・李異は自らの軍功に驕り、外部と手を結ぼうとしている」と述べているが、張松が上記の讒言をしたのかは不明である。建安19年(214年)、益州牧劉璋から劉備に寝返った法正が劉璋に送った書面によれば、孫権が李異・甘寧らを後続部隊として派遣した、としている。もっとも、この文面は劉璋に降伏を迫るためのものであり、実際に孫権がこのような軍事行動を企図したかは不詳である。建安24年(219年)末から建安25年(220年)にかけて、荊州制圧に従事していた陸遜の命を受けた李異は、謝旌と共に3千の兵を率い、蜀漢の部将である詹晏・陳鳳を攻撃した。この時、李異は水軍を、謝旌は歩兵を率いて要害を占め、詹晏・陳鳳を撃破し、陳鳳を生け捕りとした。さらに房陵太守鄧輔と南郷太守郭睦にも攻撃を仕掛け、これらも撃破した。黄初2年(221年)7月、劉備が自ら呉討伐に向かった時には、李異は劉阿と共に陸遜指揮下で巫・秭帰に駐屯していた。蜀将呉班・馮習を、李異は劉阿と迎撃したが、ここでは敗退した。しかし翌黄武1年(222年)6月に、陸遜が劉備を撃破すると、永安に逃げた劉備を追い、李異と劉阿は南山に駐屯した。結局、劉備と孫権の間で、まもなく和睦が成立し、休戦となった。これ以後、李異は史書に登場しない。

劉璋配下との関係について
なお、劉璋配下にも、李異と同姓同名の人物がいる。この人物は、元は劉璋に仕えていた趙韙の配下で、いわば陪臣にあたる。東州兵(南陽・三輔から益州に移住していた兵)への益州人の不満を利用して趙韙が反乱を起こすと、李異も当初はこれに従った。しかし、劉璋や東州兵の反撃で趙韙が劣勢となると、李異は僚将の龐楽と共に趙韙を裏切り、これを斬った。建安16年(211年)、益州別駕従事張松が劉璋に進言した際に、龐羲・李異が自らの軍功に驕り、外部と手を結ぼうとしていると述べた。本記事の李異と、この劉璋配下の李異とは、同一人物の可能性もあるが、それを裏付ける史料はない。なお小南一郎、井波律子らが訳したちくま学芸文庫版は、この2人を別人とみなしている。

ウィキペディアより

李異の一族
    No Data

李異が登場する文献
  • 5-65~66,5-206,7-270.

正史三国志データベース 三国検索 SANGOKU KENSAKU SINCE 2003

© 2003 Forumkj