荀 勗(じゅん きょく、? - 289年)は、字は公曾。豫州潁川郡潁陰県(現・河南省許昌市)の人。中国三国時代の魏から西晋にかけての政治家。曹操に仕えた荀攸・荀彧とは同族で、荀勗は荀爽の曾孫に当たる。 荀棐の孫、荀肸の子、 荀連・荀輯・荀藩・荀組の父(他六子)。母は鍾繇の娘(鍾会の姉)。 十余歳の頃、祖父である鍾繇から曽祖父・荀爽のようになるだろうと称された。始めは曹爽の元に仕えたが、司馬懿らのクーデター(高平陵の変)で曹爽一党が殺害されると、曹爽の門生故吏は連座を恐れて誰も曹爽の葬儀に出ようとしなかった。しかし荀勗が一人で葬儀に参列したので、他の者も参列した。果たして葬儀の参列が咎められることはなかった。地方に出て安陽県令となり、治績が評価されたので中央に呼び戻され、司馬昭の側近として魏朝の簒奪に協力するようになった。 263年、司馬昭から蜀漢攻略の大将を誰にするか問われたとき、鄧艾と鍾会を推挙した。鍾会が反乱を企て敗死すると、甥にあたる荀勗を洛陽に還すよう郭奕と王深は主張したが、司馬昭はこれらを退け、以前と同様に荀勗を信任した。
ウィキペディアより