蜀郡出身。益州に着任した劉焉は緜竹県に役所を移し、離反したものたちを手なずけて受け入れ、つとめて寛容と恩恵を旨とした政治を行った。しかしその間、ひそかに独立の計画を推し進めた。やがてその計画は、張魯を使って長安への通路の遮断をしたり、別のことにかこつけて益州の豪族王咸や李権ら十人あまりを殺害し権力を示す、というように現実のものとなった。犍為郡太守の任岐と賈龍は、劉焉の豪族殺害の事件によって謀反を起こし、劉焉を攻撃したが敗れて殺害された。「英雄記」によると、犍為郡太守の任岐は益州従事の陳超とともに挙兵して劉焉に敗れた、とある。
ウィキペディアより