この張氏とは、鍾会の母。鍾会は母のために伝記を書いた。「夫人張氏は字を昌蒲といい、太原郡茲氏県の人で、太定陵成侯の命婦である。代々、県の令長で二千石(郡守・刺史)の家柄であった。夫人は若くして父母を失い、成侯の家に入った。身を修め行いを正し、礼に合致しなければ何事もなさず、上や下の者からたたえられた。身分の高い側室の孫氏は、正妻にかわって家事をきりまわしていたが、心中、夫人の賢明さを嫌い、遠慮会釈なくたびたび悪口をいった。孫氏は口が達者でずるがしこく、自分の悪いことをつくろい人の罪をでっちあげるだけの弁舌をもっていたが、しかし結局夫人を傷つけることができなかった。夫人が妊娠すると、孫氏の嫉妬はいよいよひどくなり、毒薬を食物の中に入れた。夫人は中国症状を起こし、気が付いて吐き出したが、めまいが数日間続いた。ある人が「どうして殿に申し上げないのです?」というと、彼女は答えた「嫡(正妻、嫡出の子)と庶(側室、側室の子)が傷つけあうのは、家を破滅させ国を危険に陥れる行為で、古今にわたって戒めとしております。仮に殿が私を信じて下さったとしましても、人々のうち誰がよくそのことをはっきりさせてくれましょう。あちらではご自分の思惑で私の態度をおしはかり、私が申し上げるに違いないと思い、当然私の先を越そうとなさるでしょう。事件をあちらから暴くのですから、いい気持ではありませんか。」かくて病気だと言って鍾繇に会わなかった。孫氏は予想どおり成侯に向かって言った「側室が男の子を欲しがりましたので、そのために男の子をもうける薬を飲ませたのです。それなのに毒を入れられたと申しております。」成侯は言った「男の子をもうける薬ならばよいことじゃ。それをこっそり食物の中に入れて与えるとは、人情にはずれているぞ。」かくて世話をしている者を訊問すると、すっかり白状した。孫氏はこのためにとがめられて離縁された。成侯が夫人にどうしてちゃんと言わなかったのだと訊ねると、夫人はその理由を述べた。成侯はたいそう驚き、このことからますます彼女を賢いと思うようになった。225年に鍾会を生み、恩寵はいよいよ高まった。成侯は孫氏を離縁したのち、あらためて賈氏を正妻としてめとった。
ウィキペディアより