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楊駿 文長

  • 人物番号: 3050
  • 姓 名 : よう 駿しゅん
  •  字  :  文長 ぶんちょう
  • 出身地 : 弘農郡こうのうぐん
  • 生没年 : ? ~ 291
  • 性 別 : 男性

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楊 駿(よう しゅん、生年不詳 - 291年)は、中国西晋時代の権臣。字は文長。本貫は弘農郡華陰県。武帝司馬炎の外戚として権勢を振るったが、恵帝の皇后賈南風と対立した末に誅殺された。彼の死は八王の乱の端緒となった。
生涯

武帝の外戚
姪の楊艶が武帝の皇后だったので、若い頃に朝廷から取り立てられた。やがて高陸県令・驍騎鎮軍二府司馬に任じられた。274年7月、楊艶が病死すると、彼女の遺言により楊駿の娘の楊芷が後宮に招かれ、次期皇后の最有力候補となった。276年、楊芷が正式に皇后に立てられると、楊駿は外戚としてさらに度を超えた抜擢を受け、重任を委ねられるようになった。鎮軍将軍に任じられ、さらに車騎将軍に昇進し、臨晋侯にも封じられた。武帝は呉の平定以降、天下統一を成し遂げた事に安心しきり、政務を蔑ろにして酒食に溺れるようになったので、宮中では賄賂が公然と行われる有様となった。次第に楊駿は弟の楊珧・楊済と共に権勢を欲しいままにするようになり、彼らは『天下三楊』と称されるようになった。楊駿は自らを支持する者ばかりを取り立て、多くの旧臣を遠ざけたので、吏部尚書山濤は幾度も武帝へ楊駿の重用を止める様に諫めた。尚書褚䂮・郭奕らもまた上表し、楊駿は度量が狭いので国政を担うには力不足であると述べたが、武帝はいずれの意見も容れなかった。当時の貴族や官僚達は楊駿の専横を憂いたという。289年11月、武帝は病に倒れると、自らの死期を悟り、死後は叔父の汝南王司馬亮と楊駿の二人に太子司馬衷(後の恵帝)の補佐を任せようと考えた。だが、楊駿は司馬亮が権力を握るのを嫌い、楊芷と共に裏で働きかけて司馬亮を侍中・大司馬・大都督・豫州諸軍事に任じて仮黄鉞を与え、許昌に出鎮するよう命じ、表向きは昇進させた上で地方へと追い払った。また、他の皇族についても同様に昇進を名目として地方へと左遷した。また290年1月、司空衛瓘の子である衛宣は繁昌公主(武帝の娘)を娶った。楊駿はかねてより衛瓘の存在を疎ましく思っていたので、衛宣が酒による過失が多いのを理由として、宦官と共謀して衛宣を弾劾し、繁昌公主と離婚させた。これを知った衛瓘は禍を恐れて朝廷から離れ、私邸に帰った。3月、武帝の病状が日に日に悪化すると、宮中にいた楊駿は独断で武帝の近侍を自らの意に沿う者と入れ替えた。武帝の病状が少し回復すると、彼は近侍が入れ替わっている事に気付き、楊駿へ「なぜに近侍を入れ替えたか!」と咎めたが、罰する事は無かった。この時、許昌に赴くよう命じられていた司馬亮はまだ出発していなかったので、武帝は改めて司馬亮と楊駿に後事を託そうと考え、中書に命じて遺詔を作らせた。だが、楊駿は中書の下を訪ねると遺詔の原案を持ち去ってしまい、代わりに楊駿を太尉・太子太傅・都督中外諸軍事・侍中・録尚書事に任じる、という内容の遺詔を部下に命じて用意させ、既に昏睡状態に陥っていた武帝へと手渡した。武帝は間もなく死去し、息子の司馬衷が新皇帝に即位した(恵帝)。

ウィキペディアより

楊駿の一族
    No Data

楊駿が登場する文献
  • 2-220,2-308,3-501,4-193,4-267,7-312.

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