路 粋(ろ すい、? - 建安19年(214年))は、中国後漢末期の人物。字は文蔚(ぶんうつ)。兗州陳留郡の人。『三国志』魏書王粲伝に引く『典略』に記載がある。
生涯
若い頃、蔡邕に師事した。初平年間に献帝のみくるまに随行して三輔に赴いた。建安の初め、才能によって京兆の厳象とともに尚書郎に抜擢された。のちに軍師祭酒になり、陳琳や阮瑀らとともに記室を担当した。孔融に過ちがあったときに、路粋は曹操の命で上奏文を作った。曹操の意向で孔融を責めて罪に陥れた。この上奏文で孔融についてさまざまな事柄を語り、多くの言辞を用いた。孔融が処刑されたのち、人々は路粋が書いたものを見てその才能に感心し、同時に恐れないものはなかった。建安19年(214年)、路粋は秘書令に転任。大軍につき従って漢中に行ったが、禁令に違反して驢馬を安く買い受けた罪で法に服した。曹丕はかねて路粋と仲が良かったため、路粋の死を聞くと嘆き愛惜した。曹丕が帝位につくと、路粋の子を取り立てて長史に任命した。
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