韋 康(い こう、? - 212年?)は、中国後漢末期の人物。字は元将。司隷京兆尹杜陵県の人。父は韋端。弟は韋誕。『三国志』魏志「荀彧伝」注などに記録がある。曹操軍の荀彧の推挙を受けて世に出た人材の一人であるという。孔融は、韋康・韋誕兄弟と会った時の印象を手紙で父の韋端に伝えていた。それによると、韋康のことを「底知れぬ才能が輝き渡り、度量大きく、意志強く世に優れた人材」と賞し、また兄弟合わせて「ドブ貝からとれた二つの真珠」と称えたという。父が涼州牧から召されて太僕になると、代わって涼州刺史となった。楊阜を別駕に採り立て重用し、後に楊阜が中央に召された時も、慰留した上で参軍として自らを輔佐させた(「楊阜伝」)。別駕には閻温を任命し、上邽県令の職務も代行させている(「閻温伝」)。211年、潼関の戦いにおいて曹操に大敗した馬超は、上邽に逃亡して閻温を追放、次第に勢力を巻き返した。212年にはほとんどの県が馬超に呼応するようになった(「楊阜伝」・「閻温伝」)。韋康は唯一離反しなかった冀城に、楊阜や郡太守達と共に立て籠ったが、やがて馬超の大軍に包囲された。閻温を城外に出し、長安の夏侯淵に援軍を求めさせようとしたが、閻温が馬超の捕虜となり、殺害されてしまった(「閻温伝」)。その後、包囲が8ヶ月にも及び、また曹操軍の援軍も来なかったため、ついに韋康は楊阜の反対を押し切り、和議の約束を得て城門を開き降伏した。しかし馬超は約束を破り、馬超軍の援軍として来ていた張魯軍の楊昂に、韋康と郡太守達を殺害させてしまった(「楊阜伝」)。
ウィキペディアより