于 禁(う きん、? - 黄初2年(221年)?)は、中国後漢末期から三国時代の武将。字は文則(ぶんそく)。兗州泰山郡鉅平県(山東省泰安市)の人。子は于圭。『三国志』魏志に伝がある。 事跡 名将于禁 黄巾の乱に際して同郷の鮑信が義兵を募った時に、それに参加した。 初平3年(192年)、鮑信が戦死すると曹操の下に馳せ参じ、将軍の王朗の配下に加えられ、都伯となった。王朗は于禁の才能を高く評価し、優に大将軍とするに足るとして推挙した。 曹操との面談により軍司馬に任命された于禁は、陶謙が治める徐州の広威を攻撃、これを陥落させ陥陣都尉に昇進した。呂布との戦いでも、濮陽の南にある呂布の別陣を2つ破り、別働隊を率いて須昌において将軍の高雅を破り、寿張・定陶・離孤の征討に参加、さらに張超が立てこもる雍丘を陥落させるなど功績を立てた。 豫州黄巾残党の黄邵・劉辟らを征伐したときは、版梁において曹操の陣に夜襲をかけてきた黄邵らを直属の兵士を率いて撃退し、黄邵らを斬り残党を全て捕虜とした。
ウィキペディアより