閻 忠(えん ちゅう)は、若い頃の賈詡を評価したのは、漢陽の閻忠だけであった。『九州春秋』では、184年、車騎将軍の皇甫嵩が黄巾族を討伐し、天下に威光を鳴り響かせていた。このとき、閻忠は冀州安平国の治所である信都県の県令をやめたところだった。閻忠はその皇甫嵩に天下取りの大業を薦めた。しかし、皇甫嵩はこれを聞き入れず、閻忠は逃亡した。『英雄記』では、涼州の賊徒王国らが兵を挙げたとき、王国らは共謀して無理やり閻忠を指導者にまつりあげた。王国らは、閻忠に三十六の武将を統率させ、車騎将軍の称号を奉った。閻忠は感情を高ぶらせて発病し、なくなった。閻忠の本籍地については、正史の賈詡伝では漢陽とされているが、漢陽郡は74年に後漢明帝が天水郡と改名しているので、時代に則して天水郡とするほうがよいだろう。
ウィキペディアより