袁 忠(えん ちゅう)は、袁忠が沛国の相であったとき、法によって曹操を処罰しようとしたことがあった。沛国の桓邵も曹操を侮辱した。その後、曹操が兗に割拠し、あるとき陳留の辺譲の議論に気分を害された曹操は、辺譲とその家族を皆殺しにした。袁忠と桓邵はともに交州に避難したが、曹操は太守士燮のもとへ使者を送り、袁忠と桓邵の一家すべて皆殺しにした。正史には袁忠の字が載っていないが、徳間書店の『三国志全人名事典』には正甫とされている。どこかの史書に出ているのだろうか?ご存知の方がいらっしゃいましたらご教示願います。
ウィキペディアより