荊州刺史、王叡
王叡は、霊帝時代に荊州刺史を務めていた。霊帝が崩御したあと董卓が朝政を牛耳り、群雄たちは各地で董卓討伐の義勇軍を起こした。孫堅も挙兵した。王叡は平素から孫堅に対して礼に欠ける処遇を行ってきたので、このとき、王叡は孫堅に殺された。
『呉録』に見える王叡
王叡は、孫堅とともに零陵郡と桂陽郡の反乱者を討伐した。王叡は孫堅が武官であることから、孫堅を軽んじた言葉を吐くことが多かった。王叡は董卓の討伐軍を起こしたが、先に仲の悪かった武陵郡太守の曹寅を討伐すると宣言した。曹寅はおそれて、光禄大夫の温毅の檄文を偽作して孫堅に送りつけた。檄文には、王叡の罪状が述べられ、王叡を処刑して報告することが命ぜられていた。王叡は孫堅の兵が押し寄せてきた。王叡は絶体絶命となり、金を削ってそれを飲み、自殺した。
『王氏譜』に見える王叡
王叡は、晋の太保の王祥の伯父である。「晋書」王祥伝によると、王祥の父は王融、祖父は王仁とされている。これらの関係から、王叡は王融の兄で、王叡の父は王仁ということになる。