王 基(おう き、190年 - 261年)は、中国三国時代の魏の武将、学者。字は伯輿。父は王豹。子は王徽。叔父は王翁。従兄弟は王喬。青州東莱郡曲城県の人。 生涯 若くして孤児となり、叔父と暮らした。叔父は王基を可愛がり、王基も孝行に励んだため賞賛された。17歳で郡に召し出されたが、好みに合わなかったので、職を離れ、学問に励んだ。黄初年間、孝廉へ推挙され、郎中に任命された。刺史の王淩に見出され、王淩の上奏により州の別駕となった。王淩は善政を敷いたことで名声を博したが、王基の助言によるところも大きかった。才能に秀でており、王朗は王基を中央に呼び出すことを望んだが、王淩に阻止された。やがて司馬懿からもその才を認められ、王基は招聘に応じ中書侍郎となった。中央においては曹叡(明帝)の宮殿造営に対し、故事を引いた上奏文を提出して諫言したり、また、儒学者として鄭玄説の妥当性をめぐり、王粛と幾度か論争した。 安平太守に昇進したが、事件のため官を去った(安平太守時代に管輅と知り合っている(魏志「方技伝」))。
ウィキペディアより