王 匡(おう きょう、生没年不詳)は、中国の後漢時代末期の武将。字は公節。兗州泰山郡の人。<br/> 姓名<br/> 時代<br/> 後漢時代<br/> 生没年<br/> 〔不詳〕<br/> 字・別号<br/> 公節(字)<br/> 本貫・出身地等<br/> 兗州泰山郡<br/> 職官<br/> 大将軍府掾→河内太守<br/> 爵位・号等<br/> 陣営・所属等<br/> 何進→董卓→〔独立勢力〕<br/> 家族・一族<br/> 義理の子胡母班〔娘婿〕<br/>若い頃から財貨を軽んじて施しを好み、任侠をもって知られた。また、蔡ヨウ 蔡邕と親交があったという。はじめは後漢の大将軍何進に大将軍府掾として仕え、徐州盧弼『三国志集解』は、兗州の誤りではないか、とする説を記載している。に赴任して軍需物資の補給などの後方担当役をつとめていた。中平6年(189年)、何進が宦官によって殺害されたため、職を辞して郷里に戻って平民となった。しかしまもなく、河内郡の太守に就任した。<br/>
ウィキペディアより