王 修(おう しゅう、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の政治家。字は叔治。青州北海郡営陵県(山東省昌楽県)の人。子は王儀・王忠。孫は王裒。 正史の事跡 青州での治績 初平年間、孔融に仕えて高密県令として実績を示した。このとき孝廉に推挙されたが、都に上ることは無かった。 次いで膠東県令に任じられた。当時、有力豪族だった公沙盧は防備を固め租税を払わなかった。王修はたった数騎の共を連れ、まっすぐ公沙盧の家の門に入り、公沙盧兄弟を斬った。王修は孔融が困難に直面してる時に必ず駆けつけ、助けたという。 建安元年(196年)頃、孔融は袁譚に青州を追われた。一方の王修自身は、青州刺史となった袁譚にも招聘され、治中従事に任命された。しかし、青州別駕(州内第二位の地位)の劉献が王修を嫉視・排斥したことなどもあって、袁譚はなかなか王修を使いこなせなかったといわれる。その後、王修は袁譚の父袁紹から直々に召し寄せられ、即墨侯国の令に任命された。これを経て再び袁譚の下に戻った後、王修は青州別駕に任命されている。これ以後、袁譚は王修を腹心とし信頼をおいた。
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