王 凌(おう りょう、172年 - 251年)は、中国後漢末期から三国時代の武将。魏に仕えた。字は彦雲。并州太原郡祁県(現・山西省晋中市太谷県)の人。父は王宏。叔父は王允。兄は王晨。子は王広・王飛梟・王金虎・王明山。 同僚の蒋済は王凌のことを、文武を兼ね備えた人物だと評した。 192年、叔父が李傕らによって殺害されると、兄と共に城壁を乗り越えて、郷里に逃げ戻った。後に孝廉へ推挙され、発干県長・中山太守を歴任した。やがて曹操に認められ、中央に出仕した。 222年、呉の呂範との戦いの功績で、建武将軍となり宜城亭侯に封じられた。 228年、石亭の戦いでは負け戦となったが、王凌が奮戦して敵の包囲を破ったので、曹休を逃がすことができた。 王凌は統治能力に優れていたため、兗州・青州・豫州・揚州の刺史になった。また人民は王凌の統治を称賛している。特に、王基と共に荒廃した青州の政治を立て直した時は、民から非常に称えられた。満寵とは意見が対立したため、その失脚を狙ったが失敗したという。呉の武将の孫布が魏への降伏を申し出た際には、満寵が偽装降伏であると見抜いたが、王凌はそれに従わず孫布を迎えに行くために出兵し、大敗した。
ウィキペディアより