夏 育(か いく、生没年不詳)は、中国後漢末期の武将。下邳郡淮浦県の出身。経歴霊帝の時代に護羌校尉、北地太守や護烏桓校尉を歴任した。熹平3年(174年)冬、北地郡に侵入した鮮卑を北地太守の夏育は休屠各を率いてこれを撃破した。この功により夏育は護烏桓校尉となる。熹平6年(177年)、夏育は破鮮卑中郎将の田晏、使匈奴中郎将の臧旻、南匈奴の屠特若尸逐就単于の軍と檀石槐を討伐に出るが敗れ多くの兵を失い、その罪の為庶民に落とされた。(続きは、ウィキペディアで)