賈 充(か じゅう、217年 - 282年)は、中国三国時代の魏から西晋にかけての武将・政治家。字は公閭(こうりょ)。司隷河東郡襄陵県(山西省襄汾県)の人。父は賈逵。母は柳(姓不明。名のみ)。子(先妻の李氏との間)は賈荃・賈裕。また(後妻の郭槐との間)は賈黎民・賈南風(恵帝の皇后)・賈午・少なくとも男子一人。 父が病死した後、12歳で陽里亭侯を継いだ。当初は曹爽・何晏に採り立てられたが、曹爽達の失脚後に一時免職となった。復職後は司馬氏の腹心として活動した。 正元2年(255年)、毌丘倹・文欽が反乱を起こした時には参軍として出征し(毌丘倹・文欽の乱)、司馬師が急死した後の軍を監督した。甘露2年(257年)には、司馬昭の命令で諸葛誕の様子を窺うために使者として赴き、諸葛誕に叛意があることを司馬昭に報告している。 曹髦(高貴郷公)が司馬氏から実権を奪い返すために兵を挙げた際は、この事変の収拾を意図した司馬昭の指示を受け、乱の鎮圧に赴いた。
ウィキペディアより