何 曾(か そう、199年 - 278年)は、中国三国時代の政治家。字は穎考。豫州陳国の人。父は何夔。子は何遵、何劭。『晋書』に伝があり、『三国志』にも名が見られる。父の何夔は魏の陽武亭侯・太僕であり、何曾は若年の身でこれを継いだ。曹叡が平原侯の時、文学となった。曹叡が即位すると、散騎侍郎や典農中郎将、黄門侍郎を歴任した。司馬懿が公孫淵を滅ぼした後には、河内太守を務めた。威厳があったという。曹爽が権勢を振るっていた頃、司馬懿は病気と称したが、何曾もまた一緒になって病を称した。この頃になると、何曾は司馬氏に接近し始めた。竹林の七賢の一人、阮籍は母の喪中に酒や肉を口にしたため、何曾は司馬昭に言上し阮籍を左遷するように促したが、聞き入れられなかった。265年、司馬炎が禅譲を受け即位すると丞相になり、晋を支えた。278年、死去。享年80。
ウィキペディアより