韓 馥(かん ふく、? - 初平3年(192年)10月以降)は、中国後漢時代末期の武将・政治家。字は文節。豫州潁川郡(現在の河南省)の人。『後漢書』・『三国志』に記述がある。 後漢末期、董卓の専横に抵抗し挙兵した諸侯の1人である。一時は袁紹と共に帝の擁立を目論んだ事もあったが失敗し、最後は勢力を弱めた末に袁紹から領地を追われ没落した。 正史の事跡 義兵を挙げる 『後漢書』に伝のある韓韶や同時代の韓融(大鴻臚)の同族と推測されるが、続柄は明らかでない。 御史中丞を務めていたが、実権を掌握した董卓から冀州牧に任じられた(魏志「武帝紀」が引く『英雄記』)。その後、広平の沮授を別駕に任命し、騎都尉を兼任させた(魏志「袁紹伝」が引く『献帝紀』)。また、河間の張郃を司馬に任命した(魏志「張郃伝」)。 当時、渤海郡には董卓と対立し出奔していた袁紹が、太守として入っていた。韓馥は元々袁氏に仕えた役人であったが(魏志「袁紹伝」)、董卓の意向を忖度して従事を数人使い、袁紹を監視した(魏志「武帝紀」が引く『英雄記』)。
ウィキペディアより