関 平(かん ぺい、178年/190年 - 220年12月)は、中国後漢末期の武将。字は不詳。父は関羽。兄弟は関興。
史実の関平
『三国志』では、220年に関羽の軍勢が荊州において、曹操軍の曹仁・孫権軍の呂蒙らの軍と戦った時に随行し、孫権軍に捕縛され関羽と共に首を討たれたことが、「関羽伝」に記載されているのみである。各地を転戦する傭兵団は家族を持つ事が頭領以外は極めて困難であり、その傭兵団たる劉備軍が初めて一所に長く収まったのが荊州時代(201~208)である。関平の記述が殆ど無いのは、樊城攻略が彼の初陣だった為であろう。後述する小説『三国志演義』では関羽の養子として登場するが、『三国志』ではそういった記述はなく実子であるとされている。
三国志演義での活躍
小説『三国志演義』では、河北の住人である関定の次男として登場する。兄は関寧。182年に出生したと設定されている。曹操に徐州を追われ、散り散りになった劉備ら三兄弟の再会した関定の屋敷で初登場する。その際、関定が関平を随行させてほしいと頼み込んだため、劉備のとりなしで子がいない関羽の養子となる。劉備の養子劉封と行動をともにする場面が多く、新野に夏侯惇が攻めて来た際や、益州の地を取りに行くと称し劉備を殺そうとした周瑜を防いだ際、また益州攻略戦への従軍などで描かれている。益州攻略戦において龐統が戦死したため、諸葛亮たち荊州守備勢の助けを得るため使者として向かい、そのまま関羽と共に荊州に留まる。その後、関羽に従い襄陽攻めなどで活躍するが、呂蒙に攻められ関羽と共に首を斬られている。この『三国志演義』での描写により、関帝(関羽)を祭った関帝廟の随神として周倉と共に祭られている。右側に立っているのが関平帝君(関平)である。なお関平死後、義弟として関興の他に関索が登場する。
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