『カン丘倹』より 毌丘 倹(かんきゅう けん、? - 255年)は、中国三国時代の魏の武将。字は仲恭。父は毌丘興。妻は荀氏。弟は毌丘秀。子は毌丘甸・毌丘宗ら。孫は毌丘重・毌丘奥。孫娘は毌丘芝。司隷河東郡聞喜県の人。 若き日 父は曹操に仕えた人物で、曹丕(文帝)の時代に武威太守として活躍した。蘇則や郝昭と共に雍州・涼州の平定に功績があり、将作大匠となった。毌丘倹は父の死後爵位を継いだ。 毌丘倹は父の功績もあって曹叡(平原王、後の明帝)に即位前から仕え、厚遇された。曹叡が即位すると尚書郎となり、羽林監に昇進した。 その後、洛陽の典農となった。曹叡が何度か土木工事を行なったことを諌めたが、その後まもなく荊州刺史に転じた。以後、幽州・豫州・揚州の刺史を歴任することになる。 高句麗遠征 遼東の公孫淵は年々傲慢になり、呉の孫権の調略の手を受けつつ、不審な行動を続けていた。このため毌丘倹は曹叡の命令により幽州刺史に転じた。237年、高句麗や烏桓に援軍を求め、北方の余剰戦力を動員して公孫淵征伐を図ったが、衛臻から兵数に任せ用兵を軽視していると批判された。
ウィキペディアより