賀 邵(が しょう、226年 - 275年)は、中国三国時代の政治家。字は興伯。揚州会稽郡山陰県の人。祖父は賀斉。父は賀景。子は賀循。孫は賀隰。『三国志』呉志に独立した伝がある。若い頃、姚信とともに銭唐の学者の范平の下で学問を学んだ。孫休の時代に採り立てられ、中郎から散騎常侍に任命された。このとき、薛瑩・虞汜・王蕃と同僚であった(「王蕃伝」)。その後、地方に出て呉郡太守となった。孫晧が即位し、暴虐な政治を始めるようになると、賀邵はこの状況を憂いた。また孫晧に対し、殺害された王蕃のような忠臣の言葉に耳を傾け、孫晧自身のお気に入りであった何定のような奸臣を重用しないよう、言葉を尽くして諫言した。さらに、孫晧の時代になって増えた租税や徴用のため、民が疲弊し反乱が頻発しているとし、過去の歴史に学び徳を積み行ないを正すことが、国の滅亡を防ぐための道であると嘆願した。孫晧はこの上奏を見ると不愉快に思った。孫晧の取り巻き達は予ねてから、賀邵や楼玄といった正直で自分の信念を曲げない人物のことを煙たく思っていたため、孫晧に対し「彼らには国家を誹謗した罪がある」と讒言した。このため2人は孫晧から問責を受けた。賀邵は楼玄のように交州に流されることはなかったが、免職となった。後に復職したが、中風にかかって口が利けない状態になったため、辞職した。孫晧は、賀邵が病気に託けて引退したと疑い、捕まえて拷問にかけた。しかし、賀邵は一言もしゃべることができなかったため、やがて処刑されてしまった。49歳であった。その後、賀邵の家族は臨川郡に流されて、辛酸を舐めさせられたという。故郷に戻れたのは呉が滅亡した時だったという(『晋書』「賀循伝」)。
ウィキペディアより