媯 覧(き らん、? - 204年?)は、中国後漢末期の人物。盛憲によって孝廉に推挙された。盛憲が孫権に殺されると、同僚の戴員と共に山中へ逃亡した。しかし孫翊の招聘を受け、その配下となった。媯覧と戴員は孫翊に重用されたが、孫翊は粗暴な振る舞いが多かったため恨みを持った。辺洪・媯覧・戴員は互いに親交を結んだことを孫翊から叱責されたため、三人で手を組み孫翊を暗殺した。媯覧と戴員は直接の下手人である辺洪に責任を被せて殺したが、二人が共謀に加わったことは誰の目にも明らかだった。これに対し、孫翊とそれほど親密ではなかった孫河が二人を叱責したので、媯覧と戴員は後難を恐れ孫河を殺し、劉馥に内応の使者を送った。しかし計画が実行される前に、孫翊の未亡人である徐氏や、元孫翊配下の徐元・孫高・傅嬰らによって二人は殺されてしまった。
ウィキペディアより