厳 虎(げん こ、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の武将。揚州呉郡烏程県の人。弟は厳輿。小説『三国志演義』でも採用されている別号の白虎(はくこ、拼音 Báihǔ)としても知られる。呉郡の豪族(「彊族」)で、同郡において1万人以上の勢力を築き上げた。『古今図書集成』によると、長興県の南50里にある石城山を根拠地とした[1]。また、さらに10里南には白虎山があった。『呉志』「朱治伝」では「山賊厳白虎」と称されているが、これについて唐長孺『魏晋南北朝史論叢』では、「山賊」は「山越」と同義であるとして、厳虎が山越の族長であったと主張する。建安元年(196年)、江東に地盤を敷いた孫策は厳虎や王朗の討伐に乗り出した。この際、部将の呉景が先に厳虎を討つよう進言したが、孫策は群盗に過ぎないとして、王朗の撃破を優先した。その後、厳虎が海西で呉郡太守を自称する陳瑀と提携すると、孫策もいよいよ攻撃に乗り出した。厳虎は弟を和睦の使者として送ったが、その場で殺されてしまったために意気喪失し、余杭にいた許昭の下に落ち延びた。この際、程普が孫策に許昭の攻撃を申し出たが、孫策は許昭の人となりを評価して、攻撃を控えさせた。一方の陳瑀も、呂範らの攻撃を受け敗走している。以降の厳虎の消息は、後に孫策が西進した時に、陳登がその残党を扇動して孫策を襲撃させたとの記録がある。孫策はその反乱を鎮圧したが、その時に厳虎がどうなったかは記されていない(「孫破虜討逆伝」が引く『江表伝』)。
ウィキペディアより