黄 権(こう けん、生年不詳 - 240年4月)は、中国後漢末期から三国時代の人物。字は公衡。益州巴西郡閬中県の出身。子は黄邕・黄崇。 蜀漢・魏の両王朝に仕えた。陳寿の『三国志』では蜀書に伝が立てられている。 生涯 最初は郡吏であったが、劉璋から召し出されて主簿となった。 211年、張松が荊州の劉備を漢中の張魯に対する援軍として呼び寄せることを劉璋に献策した際、黄権は「左将軍(劉備)を武将として扱えば(劉備が)不満に思うでしょうし、賓客として扱えば一国に二人の君主がいることになってしまいます」と反対した。しかし、劉璋はこの進言を聞き入れず、使者を出して劉備を迎え入れた。黄権は州治の成都から広漢太守に転出した。 212年、劉備が益州攻略を開始した。周辺の郡県の長が劉備に降伏する中、黄権は堅く門を閉ざして防備を怠らず、劉備に屈しなかった。214年、成都が包囲されると劉璋は降伏した。黄権はそれを聞いた上ではじめて劉備に降伏した。劉備は黄権を偏将軍に任命した。 215年、張魯が曹操に敗れたと聞くと、黄権は劉備に「漢中を失うことは益州の危機につながる」と進言した。
ウィキペディアより