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黄忠 漢升

  • 人物番号: 0495
  • 姓 名 : こう ちゅう
  •  字  :  漢升 かんしょう
  • 出身地 : 南陽郡なんようぐん
  • 生没年 : ? ~ 220
  • 性 別 : 男性

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黄 忠(こう ちゅう、拼音: Huáng Zhōng、? - 220年8月)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢にかけての将軍。字は漢升(かんしょう)。荊州南陽郡の人。子は黄叙。劉備に仕え、益州や漢中の攻略等で活躍した。

劉備軍の勇将
劉表に仕え、中郎将に任じられた。また、劉表の従子である劉磐と共に、長沙郡の攸県の守備の任についていた。しかし劉表が亡くなり、曹操が荊州を降伏させた後は、曹操より仮の裨将軍に任じられ、職務はそのままで長沙太守であった韓玄の配下についた。赤壁の戦いの後に、劉備が荊州南四郡を平定すると、黄忠は劉備に帰順して仕えた。その後は劉備に従い益州に入り、劉備軍の一将として劉璋を攻撃し、常に先駆けて敵の陣地を攻め落とすなど、その勇猛さは軍の中でも鳴り響いた(劉備の入蜀)。益州平定後、討虜将軍に任命された。建安24年(219年)春、劉備が漢中攻めを行なうと、曹操配下で関中方面の総司令官であった夏侯淵と、定軍山において対峙し戦った。曹操配下として、勇猛果敢であると名を知られていた夏侯淵であったが、法正の指示を受けた黄忠は率先して、軍を率いて背後から夏侯淵に襲いかかり、これを討ち取って大勝利を収めた(定軍山の戦い)。これを受け、劉備は漢中を平定し漢中王となった。この功績で黄忠は征西将軍に昇進した。

後将軍
同年秋、劉備が漢中王になると黄忠を後将軍に任命しようとしたが、諸葛亮は「張飛殿・馬超殿らは彼の活躍を見ているので文句は言わないでしょうが、(荊州に残った)関羽将軍はそのことを知らないので、納得しないでしょう」と進言した。だが劉備は、関羽の説得は自分がすると言って、黄忠を後将軍に任命し、関内侯の爵位を与えた。後日、やはり諸葛亮の不安が的中し、関羽は黄忠を「老兵」と侮って同列の前将軍になることを拒否したが、費詩の説得で前将軍に就任した。翌年(220年)亡くなった。子が早世していたため、彼の家は断絶した。景耀3年(260年)に剛侯の諡を送られた。なお、同じ巻に纏められた関羽・張飛・馬超・趙雲ら四人と比べても黄忠伝は記述が少なく、裴松之による注釈も無い。他に彼の人柄を表す資料として、『三国志』蜀書の末尾に記載されている『季漢輔臣賛』の9番目に名前があり、「義に厚い壮士」であったとされている。陳寿は、趙雲と共に彊摯・壮猛であり、揃って軍の爪牙となったとし、灌嬰、夏侯嬰に比している。

三国志演義での活躍
小説『三国志演義』では、60歳を過ぎた老将でありながら、弓の名手としてその腕前を披露する姿が描かれ、敵将を一騎討ちで討ち取る場面も多い。老いるともなお勇猛果敢な活躍を見せている。関羽率いる劉備軍が長沙に攻め寄せると、韓玄配下としてこれに応戦する。その際、関羽との一騎討ちで互角に戦うが、馬が躓き危うく討ち取られそうになる。関羽は黄忠の武勇を認め「貴殿のお命しばし預けた。早く馬を換えて戦いに戻られよ」と言い、これを見逃している。これに恩義を感じた黄忠は再戦時に、関羽の兜の緒に矢を命中させる事で、関羽の命を奪うことなく撤退させるが、韓玄に敵軍に内応しているのではと疑われ、捕縛され処刑されそうになる。しかし、魏延の反乱で韓玄が死亡すると、劉備に仕えることになる。漢中攻略時には、同じく老将である設定の厳顔とコンビを組み、張郃・夏侯尚らを破り、自分を兄の仇と狙う韓玄の弟である設定の韓浩を討ち取っている。その後は定軍山で夏侯淵を討ち取り、漢中平定後に五虎大将軍の一人とされるのである。関羽が黄忠を老将と侮り、同列扱いされるのを嫌うのは史実通りである。また史実では220年に亡くなっているが、『演義』では夷陵の戦いにも参加している。その最中、劉備が関興・張苞といった若者を称え、老兵を軽んじる発言をしたため、部下十数名で呉の潘璋の陣へと斬り込んでいる。しかし最後は馬忠の矢にあたり、それが元で死亡してしまう。現在の中国では、老いて益々盛んな人を、演義の中で描写された黄忠のイメージから指して「老黄忠」と呼ぶ様になっている。

ウィキペディアより

黄忠の一族

黄忠が登場する文献
  • 5-49,5-53~54,5-84,5-184,5-188~189,5-191,5-212,5-320~321,5-462.

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