高 覧(こう らん、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の武将。名は高奐ともいう。 正史の事跡 袁紹配下。正史では建安5年(200年)10月、官渡の戦いで烏巣の攻撃に向かった曹操の留守を衝くため、同僚の張郃と共に曹操の本陣に攻撃を仕掛けた。しかし、最終的には攻め落とせず、烏巣を陥落させ戻ってきた曹操に降伏した。記述はこれのみであり、張郃と異なり曹操の下での活躍は全く無い。 演義の高覧 一方、小説『三国志演義』では、高覧の活躍が大いに描かれている。 顔良・文醜亡き後の袁紹軍において、高覧は張郃と共に2枚看板的な勇将として登場する。官渡の戦いでは許褚と互角に一騎打ちを繰り広げる。 烏巣の兵糧庫が曹操軍に急襲された際には、高覧は張郃と共に曹操軍の本陣を攻撃したが、反撃を受けて大敗を喫してしまう。すると、本陣攻撃を進言した郭図が、自分の作戦の失敗を押し付けようと図り、張郃と高覧について袁紹に讒言する。また一方で郭図が、張郃と高覧に袁紹が2人を粛清しようとしていると連絡したため、怒った高覧は袁紹からの帰還督促の使者を斬り捨て、さらに張郃も説き伏せて共に曹操に投降することとなっている。
ウィキペディアより