『公孫サン』より 公孫 瓚(こうそん さん、拼音 Gōngsūn Zàn、 ? - 建安4年(199年))は、中国後漢末期の武将。字は伯圭、または伯珪。「公孫瓉」とも表記されることがある。幽州遼西郡令支県(現河北省遷安市)の出身。従弟は公孫範・公孫越。子は公孫続ら。『三国志』魏志、及び『後漢書』に伝がある。 後漢末期の動乱で有力な将軍として頭角を現し、後に群雄として割拠した。河北の支配権をめぐって袁紹と争うが、劉虞を殺害するなどしたため人心を失い、最後は袁紹に敗れて自害した。 生涯 北方の勇将 先祖代々二千石(郡太守クラス)であった有力豪族の子として生まれたが、生母の身分が低かったので、あまり厚遇されなかった。若い頃に、遼西郡の門下書佐に任命された。聡明で、声が大きく、容姿が優れていたという。弁舌さわやかで頭の回転も速く、物事の説明も巧みであったという(『典略』)。太守の侯氏から惚れ込まれ、侯氏の娘婿となる。そして侯氏の援助で涿郡の盧植の下で経書・兵学を学んだ。このときの学友に劉備がいる(蜀志「先主伝」)。 太守の劉氏(名は劉其、または劉基)が法律に触れて廷吏に連行されたとき、公孫瓚は法に触れる危険を犯してこれに随行し、雑役を代わって務めた。
ウィキペディアより