呉 質(ご しつ、177年 - 230年)は、中国後漢末期から三国時代の政治家、文学者。魏に仕えた。字は季重。兗州済陰郡(現山東省)の人。子は呉応・呉夫人(司馬師の妻)。孫は呉康。『三国志』に独立した伝は立てられていないが、魏書王粲伝の注に引用された『魏略』にまとまった記述がある。 曹操に仕え、広い才能と学識によって、曹丕をはじめとする諸侯から寵愛された。曹丕・曹植による後継争いが起きると、兄弟の間をうまく立ち回りつつ、曹丕の擁立に尽力した。この時、曹丕に曹操の面前で嘘泣きをするよう進言し実行させ、あたかも感動させているように見せかけたという逸話がある。劉楨とともに曹丕の賓客となり出入りしていたが、劉楨が不敬罪で処罰を受けると、朝歌県の県長に左遷となり、後に元城の令となった。呉質が朝歌県長を務めていた頃、曹植は当時曹操から非常に寵愛を受けていた。このため不安を感じていた曹丕は、呉質を呼び出して行李の中に隠れさせ、ひそかに参内させて対策を練った。しかし曹植派の楊脩はこれを察知し、呉質が勝手に任地を離れている事を曹操に報告した。
ウィキペディアより