司馬 芝(しば し、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代の政治家。字は子華。河内郡温県の人。妻は董昭の姪。子は司馬岐。孫は司馬肇。司馬氏の一族。司馬朗の族兄で、司馬朗に比べると無名な存在であったが、楊俊だけは司馬芝を評価していた。戦乱を避け、母を連れて荊州へ避難していた。曹操が荊州を平定するとそれに仕え、県長に取り立てられ、のちに広平県令に転じるも、法を厳格に適用し、曹操の側近で傲慢であった劉勲のような強者に阿ることなく、弱者を救済する公明正大な政治を行なったため信頼を得た。大理正や郡太守を数回経て、黄初年間に河南尹になった。法を論じ、董昭や曹洪の縁者が不正に関わった際も厳粛に処断をした。後に大司農まで昇った。農業政策の重要さを曹叡(明帝)に説き、信頼を得た。その後、在官のまま死去した。子が爵位を継いだ。河南尹としての名声は、晋の時代まで語り継がれるほどであった。
ウィキペディアより