司馬 師(しば し、208年 - 255年)は、中国三国時代の魏の武将、政治家。字は子元。西晋が建つと世宗の廟号、景帝の諡号を贈られた。司馬懿の長子で、司馬昭・司馬幹の同母兄。生母は張春華(宣穆皇后)。 生涯 実権を受け継ぐ 司馬師は上品で立派な容姿の持ち主で、沈着冷静、先見の明に長けていた。若いときから評判が高く、夏侯玄や何晏らと名声を等しくした。何晏は常々、司馬師を称えて「ただ司馬子元だけが、天下の務めを果たすことができる」と言っていた。魏の景初年間に散騎常侍を拝命し、中護軍(中領軍とともに皇帝の近衛兵の指揮をする役職)に昇進する。 司馬師は司馬懿と共に曹爽に対するクーデター(高平陵の変)の計画を練ったが、弟の司馬昭すら兄の考えを知ることはできなかった。249年、クーデター決行日の早暁、司馬師は司馬孚と共に速やかに洛陽宮城の城門を押さえ、内外を鎮撫した。その整然とした陣容を見た司馬懿は「子元もやるようになった」と言った。司馬師はかねてから死を覚悟した壮士(死士)を3000人ほど養っており、クーデターに際してたちまち集結したが、周囲の者はどこから来たか分からなかった。
ウィキペディアより