恵帝(けいてい)は、西晋の第2代皇帝。生まれつき暗愚であり、西晋に混乱をもたらした。 生涯 初代皇帝武帝の次男であったが、兄の司馬軌が夭折したため後継者に早くから指名されていた。 泰始2年(267年)1月に立太子される。武帝は太子の司馬衷が暗愚であるということを改めて知り、廃太子を考えた。そこで、武帝は尚書の仕事を司馬衷にやらせることにした。この時、司馬衷の妃であった賈妃が、他人に代筆させて仕事を終わらせた(あまりに出来が良過ぎると代筆が露見するので、ぎりぎり及第点の文章を書かせたともいう)。これにすっかり騙された武帝は司馬衷を廃嫡しようとは考えなくなった。または騙されなくとも太子の側室の謝夫人が産んだ孫の司馬遹(愍懐太子)がいるので、希望の星である孫の繋ぎ役として太子のままにしたともいわれる。 太熙元年(290年)4月に武帝が崩御すると即位した。即位しても恵帝は相変わらず暗愚であったため、実際の政治は、武帝の皇后であった楊太后の一族の楊駿が執り行なうようになる。
ウィキペディアより