司馬 孚(しば ふ、180年 - 272年)は、中国後漢末期から三国時代の魏の政治家で、西晋の皇族。字は叔達。諡は献。司馬朗・司馬懿の弟で、司馬防の第3子。 兄達と同様曹操に仕えた。『晋書』によれば、温厚寛達で誠実な性格であり、人を恨んだことがない、とまで評されている。経書に精通し、文才にも秀でており、最初に与えられた官職は、曹操の子で文才をうたわれた曹植の文学掾であった。奔放な気質の持ち主であった曹植を度々諌め、曹植は最初、その諫言に反発していたが、後にはその非を謝し、司馬孚を厚遇した。 曹操の葬儀の際は、曹丕の哭礼があまりに激しいことを諫め、「あなたは天下の規範となるべきお方、小人の礼は取られますな」と忠告し、他の廷臣たちには「今、魏王を失って海内は混沌の極みであるのに、あなた方に泣いている暇などありません」と叱咤した。 魏には度支(たくし)尚書という軍事財政選任の国務長官が置かれた。諸葛亮の侵攻に苦しめられていた明帝は、司馬懿の弟であった司馬孚をこれに抜擢した。司馬孚は兵員・物資を的確に補充して、兄の戦いを後方から支援した。
ウィキペディアより