周 泰(しゅう たい、生没年不詳)は、中国後漢末から三国時代の武将。呉に仕えた。字は幼平。九江郡下蔡の人。子は周邵・周承。 生涯 蒋欽とともに孫策に仕え、側近となる。孫策が会稽郡に進出すると、別部司馬となった。 孫策の弟の孫権は周泰を気に入り自分の配下に貰い受けた。孫策が六県の山越征伐に赴き、孫権が宣城の留守を任されていたが、兵士が少なく油断しきっていたところを山越の反乱軍に急に襲われて命の危険にさらされた。このとき周泰は、人に倍する勇気を持って味方を鼓舞し、全身に12ヶ所の傷を負いながらも、身を挺して孫権を護りきった。しばらく人事不省な状態に陥ったが、孫策から感謝され、回復後に春穀の県長に任命された。皖城や江夏の攻撃に参加し、帰還中に豫章に立ち寄ったとき、宜春県の長に任命された。任地における租税を扶持として与えられる待遇を受けた。 孫権の時代になると、江夏の黄祖討伐で功績を挙げたのを始め、赤壁の戦いで周瑜や程普に随って、曹操の攻撃を防ぎ、南郡の曹仁攻撃にも参加した。
ウィキペディアより