『荀イク』より 荀 彧(じゅん いく、163年(延熹6年) - 212年(建安17年))は、中国後漢末期の政治家。字は文若(ぶんじゃく)、豫州潁川郡潁陰県(現河南省許昌市)の人。諡は敬。『三国志』魏志、及び『後漢書』に伝がある。 若くして「王佐の才」とも称揚され、後漢末の動乱期においては、後漢朝の実権を握った曹操の下で数々の献策を行い、その覇業を補佐した。しかし、曹操の魏公就任に反対した事で曹操と対立し、晩年は不遇だった。 生涯 名門荀家 祖父の荀淑(じゅんしゅく、字は季和)は荀子十一世の孫とされる、儒学に精通し、郎陵の令となったが、当時の朝廷を牛耳っていた梁冀一族を批判し、清廉な道を貫いたため、極めて名が高く「神君」と呼ばれ尊敬を集めた。後漢の順帝から桓帝にかけてその名を知られていたという。荀淑が死んだ時には村人が挙って彼の祠を建てたという。 荀淑には子が8人居り、上から荀倹(じゅんけん)・荀緄(じゅんこん)・荀靖(じゅんせい)・荀燾(じゅんとう)・荀詵(じゅんしん)・荀爽・荀粛(じゅんしゅく)・荀旉(じゅんふ)といった。
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