全 琮(ぜん そう、198年(『建康実録』) - 247年または249年)は、中国三国時代の呉の武将。揚州呉郡銭唐県の人。字は子璜。父は全柔。子は全緒・全寄・全懌・全呉。孫は全輝・全禕・全儀・全静。甥は全端・全翩・全緝。妻は孫魯班(全公主)。『三国志』呉志に伝がある。 若き日 父は霊帝の時代に孝廉に推挙され、尚書郎右丞となったが、董卓の乱で朝廷が乱れると官職を捨て故郷に戻った。故郷の揚州でも別駕従事に推挙され、さらに詔勅により会稽東部都尉に任命された。孫策が挙兵し呉郡に兵を進めると、父は真っ先にその配下となり、孫策の推挙により丹陽都尉に任命された。引き続き孫権にも仕え、孫権が車騎将軍に任命されるとその長史となり、桂陽太守まで昇ったという。 ある時、全琮は父の命令で呉郡に米を運んで売却する任務を負ったが、全琮はその米を民に数千石程施した。父は怒ったが、全琮は士人が苦しむのを見かねたためだと謝ったのを見て、かえって子の非凡さを認識した。 戦乱を避けて中原から逃れた数百家族に、全琮は家財を傾けて援助した事から、全琮の名は遠近に轟いた。
ウィキペディアより