宋 忠(そう ちゅう、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の学者・政治家。字は仲子。荊州南陽郡の人。「宋衷」とも表記される。荊州を支配した劉表の招請に応じ、儒者として学校で教鞭をとった。また、かねてから親交のあった蜀郡太守の王商に、許靖を推薦している。建安13年(208年)、劉表が死去し劉琮が後継すると、その配下として引き続き仕えた。それからまもなく、劉琮は曹操に降伏を申し入れたが、客将の劉備にはしばらくこのことを伝えないでいた。しかし、劉備からの問い合わせもあって、それも限界となり、宋忠は劉琮の命令でこの旨を劉備に伝えに行くことになった。これを聞いた劉備は驚き怒り、剣を抜いて宋忠に突きつけ「貴様を殺すのは容易いが、貴様のような者を殺すこと自体が大丈夫として恥だ」と言い捨て、宋忠を追い払った。その後は劉琮に従って降り、曹操領内で生活した。宋忠の没年等は明らかではない。宋忠には子(名は不詳)がいたが、建安24年(219年)の魏諷の反乱に加担して処刑された。宋忠は古典の学者・注釈家として、高名な人物であった。荊州では、綦毋闓(きぶ かい)と共に『五経章句』を編集し(『後定』と称する)、主に揚雄『太玄経』の注釈者として多くの門人を抱えた。主な門人として王粛・尹黙・潘濬がいる。しかし、呉の虞翻によれば、宋忠には鄭玄ほど注釈の才能は無かったとされ、『太玄経』の注釈にも少なからず誤りがあったという。後に虞翻は、宋忠の誤りを正すため、注釈の修正に取り組んでいる。
ウィキペディアより