孫 乾(そん けん、生没年不詳)は、中国後漢末期の政治家。字は公祐。青州北海郡(山東省)の人。『三国志』蜀志に伝がある。 劉備が陶謙の跡を継いで徐州刺史となったとき、招聘を受けて従事となった。『鄭玄伝』によると、同郷の鄭玄が州に推挙したため、陶謙の推挙で豫州刺史となった劉備の参謀(従事中郎)として仕えたとある。 呂布が徐州を奪い取ると、劉備につき従って曹操の元に身を寄せた。後に劉備が曹操から離反したとき、冀州の袁紹への使者として派遣された。劉備が袁紹より離れ荊州の劉表を頼ったときは、糜竺と共に劉表への使者として赴いている。 劉表は袁尚に対し、袁尚と袁譚の抗争について「劉備や孫乾らと話し合うたびに心を痛めている」という内容の手紙を送ったという。 214年、劉備が益州を領有すると、従事中郎から秉忠将軍に昇進し、糜竺に次ぐ簡雍と同等の待遇を受けたが、間もなく死去した。 小説『三国志演義』では、陶謙が臨終時に徐州を劉備に譲ることを決めたとき、劉備を輔佐する人材として孫乾を推挙したことになっている。
ウィキペディアより