孫 桓(そん かん、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代の人物。呉の皇族(宗室)の一人。字は叔武。父は孫河。兄は孫助・孫誼。弟は孫俊。従兄弟は孫韶。甥は孫建・孫慎。従孫は孫丞。『三国志』呉志「宗室伝」に記述がある。 生涯 父は孫策に気に入られて孫姓を与えられ、皇族として迎えられたとも、また元々孫姓であったが、兪家の養子となった後、孫姓に戻すことを許されたともいわれる。 兄二人は県長を務めたものの若くして亡くなった。孫桓は容姿端麗・頭脳明晰・博識であり、議論にも秀れていたとある。孫権は孫桓を「宗室顏淵(皇族における顔淵)」と褒め称え、武衛都尉に抜擢した。華容の関羽討伐に従い、関羽軍の残党を説得し、5千人を帰順させた(『呉書』)。 その後、25歳で安東中郎将となり、陸遜とともに蜀漢の劉備の侵攻を防御することとなった。劉備の大軍が山や谷を埋め尽くすほどであったが、孫桓は自ら武器を振るい、命を惜しまず陸遜と力を一つにして戦い抜き、劉備を敗走させた(夷陵の戦い)。
ウィキペディアより