孫 休(そん きゅう)は、三国時代の呉の第3代皇帝。呉の初代皇帝である大帝孫権の子(六男)。第2代皇帝孫亮の兄。生母は王氏(敬懐皇后:孫和の母の大懿皇后とは別人)。妻(皇后)は朱拠の娘・朱氏(生母は孫魯育)。『三国志』呉志「三嗣主伝」に伝がある。 若き日 生母の王夫人(敬懐皇后)は南陽出身で、嘉禾年間に孫権の寵愛を受け、孫休を産んだという。琅邪出身の王夫人(大懿皇后)が産んだ孫和が寵愛を受け、太子に立てられると、孫権の他の夫人はみな都を出され地方に住まわされることとなったため、孫休の生母の王氏は公安に移住し、そこで死去したという(『三国志』呉志「孫権王夫人伝」)。 孫休は13歳のとき、中書郎の射慈と郎中の盛沖より学問を授かった。 太元2年(252年)正月、孫休は琅邪王に封じられ、虎林に居住した。同年4月に父の孫権が死去し、皇太子である弟の孫亮が皇帝となり、孫亮の補佐役となった諸葛恪が政治の実権を握った。孫休ら諸王は、長江沿いの戦略上の要地にそれぞれが配置されていたが、諸葛恪はこれを嫌ったため、孫休は丹陽郡に移住することになった。
ウィキペディアより