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太史慈 子義

  • 人物番号: 0649
  • 姓 名 : 太史たいし 
  •  字  :  子義 しぎ
  • 出身地 : 東莱郡とうらいぐん
  • 生没年 : 166 ~ 206
  • 性 別 : 男性

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太史 慈(たいし じ、166年 - 206年)は、中国後漢末期の武将。字は子義(しぎ)。青州東莱郡黄県の人。子は太史享。子孫に梁の学者の太史叔明がいる。 若くして学問を好んだ。身の丈は七尺七寸(約177cm)で武勇に優れ、弓を扱えば百発百中の名手であった。後に孫策と共に山賊討伐を行なった時、遠くに見える砦の上から罵声を浴びせかけてきた一人の山賊が、手に木を掴んでいるのを見ると、掴んでいた木と共に手を射貫いたという逸話もある。 青州時代 初めは東莱郡の官吏を務めた。郡と青州が確執を起こした際、都へ郡の上奏を届けた。この時、機転を利かせて州側の上奏を切り破り、郡に有利な処分を引き出した。このため州から疎まれ、遼東郡に逃走した。この留守の間、彼の母の面倒を孔融が見たという。その恩に報いるため、孔融が黄巾軍の残党である管亥に攻められた時、太史慈は救援に駆けつけた。しかし管亥の攻撃は激しかった。そこで太史慈は、城外で弓の練習を始め敵兵の注目を集めた。それを何日も繰り返して、敵兵も「また練習だろう」と興味を持たなくなったところを、一気に単騎で敵の包囲網を突破し、平原の丞を務めていた劉備に救援要請の使者として赴いた。

ウィキペディアより

太史慈の一族
    No Data

太史慈が登場する文献
  • 2-337,6-75,6-265,6-326,7-111,7-175.

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