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趙雲 子龍

  • 人物番号: 0652
  • 姓 名 : ちょう うん
  •  字  :  子龍 しりゅう
  • 出身地 : 常山国じょうざんこく 真定県しんていけん
  • 生没年 : ? ~ 229
  • 性 別 : 男性

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趙 雲(ちょう うん、拼音: Zhào Yún、160年代? - 229年11月)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢にかけての将軍。字は子龍(しりゅう・しりょう)。冀州常山国真定県(現在の河北省石家荘市正定県)の人。封号は永昌亭侯。諡は順平侯。子は趙統・趙広。父と兄の名は不詳。

生涯
子供の頃は漢王朝から鉄仮面としておわれる身となっていた。その後、袁紹の配下に名を連ねていたが、袁紹には忠君救民の心がなかったため、右北平太守公孫瓚のもとへ馳せ参じている。そして公孫瓚の部下となるが、青州で袁紹と戦っていた田楷の援軍として公孫瓚が劉備を派遣した際、趙雲も随行して劉備の主騎となった。建安13年(208年)、荊州の当陽県長坂で曹操自ら指揮を執る5000の兵に追いつかれた劉備は、妻子を捨てて逃走した。この時、趙雲が劉禅を身に抱え、更に甘夫人を保護したので、二人は危機を免れることができたが、劉備の娘二人は曹純に捕獲された(長坂の戦い)。この戦いの後、牙門将軍に昇進した。劉備の入蜀時には荊州に留まった。建安18年(213年)、諸葛亮・張飛・劉封らと共に長江を遡って入蜀し、益州の各郡県を平定した。趙雲は江州から別の川に沿って西進し、途上で江陽を攻略した。益州が平定された後、翊軍将軍に任ぜられた。建興元年(223年)、劉禅が即位すると中護軍・征南将軍へ昇進し、永昌亭侯に封じられた。後、鎮東将軍に昇進した。建興5年(227年)、諸葛亮と共に北伐に備えて漢中に駐留した。建興6年(228年)、諸葛亮が斜谷街道を通ると宣伝すると、魏の曹叡は曹真を郿に派遣し、諸軍の指揮を命じて駐屯させた。趙雲は鄧芝と共にその相手をする事となり、諸葛亮は祁山を攻めた。曹真は箕谷に大軍を派遣したが、兵の数は趙雲と鄧芝の方が多かったという(『漢晋春秋』)。しかし曹真の兵は強く、趙雲と鄧芝の兵は弱かったので、箕谷で敗北した。その際趙雲は自ら殿軍を務め、軍兵を取りまとめてよく守り、輜重もほとんど捨てずに退却できたため、大敗には至らなかったが、鎮軍将軍に降格された。一方、『華陽国志』では位階ではなく禄を貶したとの記録がある。諸葛亮は、箕谷では不戒の失があったと上奏している(蜀志「諸葛亮伝」)。『水経注』によると、この撤退戦の際、赤崖より北の百余里に渡る架け橋を焼き落すことで、魏軍の追撃を断ち切っており、その後しばらくは鄧芝と共に赤崖の守りにつき、屯田を行っている。建興7年(229年)、没した。子の趙統が後を継いだ。景耀4年(261年)、趙雲は順平侯の諡を追贈された。法正・諸葛亮・蔣琬・費禕・陳祗・夏侯覇は死後すぐに、関羽・張飛・馬超・龐統・黄忠は景耀3年に追贈されており、趙雲は12人目である。時の論はこれを栄誉とした。陳寿は、黄忠と共に彊摯・壮猛であり、揃って軍の爪牙となったとし、灌嬰・夏侯嬰に比している。『季漢輔臣賛』では「重厚な性質」とされ、陳到と共に「選り抜きの兵士を率い、勇猛でたびたび勲功をたてた」とされている。
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ウィキペディアより

趙雲の一族

趙雲が登場する文献
  • 5-41,5-49,5-74,5-84,5-93,5-96,5-113,5-127,5-132,5-185,5-469.

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