張 衛(ちょう えい、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の武将。字は公則。豫州沛国豊県の人。父は張衡。母は盧氏。兄は張魯。弟は張愧。甥は張富・他数名(張魯の10人の子)。 正史の事跡 建安20年(215年)、曹操が漢中へ進攻してくると張魯が降伏しようとしたが、張衛は承知せず、将軍の楊昂・楊任と数万の兵を率いて陽安関を守備した。一時は曹操軍を撃退したが、曹操が高祚らが率いる別働隊を派遣して夜襲させたため、楊任が戦死し、張衛も敗走した(陽平関の戦い)。 それでも張衛が抵抗を続けていると、野生の鹿数千頭が張衛の陣営を走り壊す事故(曹操軍の計略によるものかどうかは不明)が発生した。さらに、偶然発生した高祚との夜間の遭遇戦では、高祚が味方を呼ぶために打ち鳴らした軍鼓の音を、張衛は奇襲の合図と勘違いしてしまう。これらのことにより、ついに張衛は戦意を喪失して降伏した。 『天師世家』は、張衛の字を公則とする。曹操に仕えて昭義将軍に任ぜられたと記載されている。 物語中の張衛 小説『三国志演義』では、最後まで兄に逆らって曹操への抵抗を続け、勇将許褚との一騎打ちに敗れ戦死している。
ウィキペディアより